この春引越をした。以前は事務所まで車あるいは電車で通っていたのだが、今度の部屋からは歩いて通える。しかも生活が驚くほど健全になった。毎日家に帰っている。すごい。
それはさておき、新居はなかなか住み心地のいいところで満足している。以前の引越では後生大事に持って移っていた物どもを全て捨てて来るという暴挙に出た結果、なかなかすっきりとした暮らしぶりとなった。それもこれも全て、「全部捨てて行け」という母の助言に従ったためだ。彼女は例の阪神大震災を経験してから前にも増して物に対する執着心が無くなったようで、今後一切不必要な物を買わない主義になったらしい。しかし地震で割れた食器くらいは買い足してもいいと思うのだが、それさえも放棄している。パーフェクトだ。
京都に来て5回目の引越なのだが、引越の度に思うのは「普通に生活してるだけなのに何故こんなに不必要な物が大量に部屋に溜まるのだろう」ということである。「いつか使うかも知れない」というおばはん根性が原因なのはわかっている。ならば何故おばはんの王道を行くうちの母親があれだけ潔く物を捨てられるのか。この数年、泳ぎ好きの私が毎夏海やプールに行けなかったのも、彼女が私の水着を捨ててしまったのが第一の原因だし(「じゃあ新しいの買えよ」というツッコミはなしね)、私が子供の頃愛読していた本なども、思い出にとっておこうとか、一言聞いてから捨てよう、という気すらないらしい。
去年、彼女とその弟を中心に、彼らの生家を大掃除するという計画が持ち上がった。数週間に渡る大清掃の途中経過などを母の電話で聞いていると、祖父母の心中や察するに余りある騒動だったに違いない。彼女曰く、長年かかってため込んだ祖母の「ゴミ」を捨てるのが大変で(ここで既に、祖母にとってそれが「ゴミ」であるか否かという判断はない)、何度家ごと燃やそうと思ったことか、ってひどい。
物を取っておく、とか、捨てない、という行動は、大体「また使うかも知れない」という前向きな(?)発想と「思い出になるから」というちょっとおセンチな発想に起因する。と思う。で、前述の私の愛読していた本などについて、残してあるかどうか、母に電話で問い合わせたことがある。子供の読む本なのだから、育ってしまった娘には不要の長物であるが、それにしても、その時の母の返答は「そんなものあったっけ?」だった。つまりその物の存在自体が記憶から抹殺されているのだから、思い出もくそもない。
なんて合理的かつ「がさつ」な思考回路。まあ、私も麻雀などをしている時には、振り込もうが、切る来〜るだろうが、テンパってて流れようが、後悔しないことにしている。あと何巡していればツモれたとか、誰が持ってたとか、一切調査しないのが私の生き方〜。まあ、家に溜まる不要品についても、きっと同じなのだろう。後悔することをやめてしまえば、後悔するのではないかという不安も排除できる訳だ。(結果、麻雀も弱いと)
母親のチョー合理的な生き様に合掌。(文責2号ちゃん)
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